shizuのタフな日々~私と仕事とシングル介護~

フットケア・心身メンテナンス「ハーモニー」主宰・マツサカのカミングアウト人生。 難病の進行性核上性麻痺を抱えるははを介護中。人生投げ出したいこともあったけど今はタフ。これからも淡々とワクワク生きていきたい備忘録。

カテゴリ: 自分について

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前回は10月から11月にかけての身辺の経緯をザクっと(あの長さでもザクっと)書き込み自分の思いなどは改めてと結びました。

良いニュースを探し出すのが難しいほど大変な動きばかりの世の中
理不尽な思いをされて懸命に日々をおくっている方が溢れる世の中に
親を亡くした人間個人としての内面の動きなど人様の目に晒しても恥ずかしいだけで無意味だと思いましたが
やはり「介護ブログ」という名目で開設した以上はその後の段階までを発信しなければただの逃げ腰だと思い直し
恥ずかしくはありますが自らを晒すことに挑戦します。

ただし恥ずかしいので「日記」のような、人に伝える文体ではない形式にしますのでご了承ください。
以下↓

長いこと介護を続けた母を自宅で看取るという最期から一か月が丁度すぎた頃から
徐々に自分の心持ちが顔を見せ始めた。
「お母さま亡くしてお寂しいですよね」とかそういう優しいお言葉に沿えない感覚
いや、寂しくないわけでも悲しくないわけでもないが泣き崩れて生活に手が付かないとかそういうものではない感じ
乱暴に言えば「ここまでやってきた私の20年は何だったのだ」というのに近い。

自分との折り合いをつけながら上手くバランスを取ってやってきたつもりの介護生活だっだが
いざ母が亡くなり日にちが経つほど生活の空間、時間、思考、何もかもが自分の入る隙間がないほど「母の介護」であり介護中心で生きてきたことに気づかされ愕然とした。

介護は時間や体力のみならず思考も奪う。それが何より厄介。
対外的に装うことは容易だが、実は思考回路は気づかない内に介護回路にプログラミングされ
自分自身を縛っていたらしい。

ほぼ四半世紀前、父を亡くし訳あって実家を手放さなくてはならなくなり
一人で生活など出来ない母を半ば引き取る形で不本意に始まった母との生活
それまで一人暮らしだった私は「これで自分の人生も終わり」と嘆いたものだが
今思うのは確かに人生の中の貴重な長い時間がスッポリと使われてしまったこと。
今は用済みで「はいお終い」と投げ出された感覚

私の場合は双方がある程度納得のできる最期を迎えられるための介護だったのだが
貴重な時間をたくさん使い懸命に取り組んできたものが母の死によって「意味のない物」に感じられてしまったのだ。
なんだそれ、バカバカしい。わかってやって来たことなのにそんなものにむなしさを感じてさ。と自分を嘲笑う。

同じようなことを人から聞けばきっと「そんな事はない」と言うのだろう
自分でも子供じみたくだらない感覚だということは理屈では理解出来ている。が、感じてしまっているのでこればかりはどうしようもない
長い間1人で張り切りすぎてきたのが一番の要因なのだろう。

勿論介護関係各所や医療関係各所には大変お世話になりとてもありがたい
おかげでやってこられたと心の底から感謝しているが、その各所の手続きや事業所の変更、トラブルなど頭を悩ませた部分も含め、ベースはやはり私が全て采配していた。
大手術や怪我の対応、排便や発熱、食事、水分摂取、体位変換等々を24時間。度重なる決断。
自分自身のやるべきことと実は並行できていなかったにもかかわらずプライベートも上手くこなしていると思っていたし
月日が長かった分だけ「やれて当然」と思い込み失敗を恐れていた。

シングル介護なので他の時間の流れが生活になかった為、自宅の空間が全て介護になっていたのも良くない。
ザ・介護の家。
母が亡くなったことで「暮らすための家」になり
この年齢で改めて戻ってきた時間と空間をどのように操っていけばいいのか途方に暮れている様子の浦島太郎状態

長い年月に不義理をしていた友人たちと以前のように交流する事も出来ないだろうという虚しさと
当たり前の社会参加ができていなかった自分を顧みて情けなく、なによりそれ等が悲しいようだ。

今から「失われた20年」を取り戻すのは不可能だが外に踏み出す小さなリハビリを重ねながら残された人生を新たに歩まねばならない
とはいえ既に一か月以上も過ぎ、飽きるほど考え感じ尽くしたので全面的に社会復帰だ。
残された自分自身の人生内に追いつかなくなる前に駆け足で進んでいかないと。

年が改まったら自分の機嫌を自分でとりながら走り抜けていきたいと考えている。







































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  元気を頑張るお年寄り猫

前回、ショートステイ施設が新たに見つかるのか?!と騒いでいた件はどうにか終息し
不慣れな施設にお世話になり始め二か月
このままそーっと日々が過ぎてくれればとの願いは届かず
二週間前より先週、先週より今週と傾眠状態が強くなる母
一日寝ていて翌日目覚め食事を摂る、というスパンが長くなってきている。
これが三日になり四日になりだと…

当然これはちゃくちゃくと老化が進行しているのだと理解するも
現実問題、口から食物と特に水分が摂取出来ないのはどうにかしないといけない。

なので本日は訪問診療にお願いし点滴してもらうことに。
しかしとうとう「胃瘻」をどうするか頭の片隅に置いていた問題を引っ張りださねばならない時がやってきたなと。
施すのならばこれ以上衰弱する前に、今決断するべき時。
介護家庭のご家族それぞれ考え方があるでしょうが
母の場合もともと食べる事が大好きで、それが彼女を繋いできたといっても過言ではない
今でも目覚めた時に「水ようかん」をおいしそうに食べるのだからそれは尊重したい
もちろん「胃瘻」後も経口摂取は可能だけれど母自身の環境が変わってしまい、以前のように食事とはならない上に「胃瘻」を施す為にはまとまった入院が必要。
現在の状態で10日も二週間も入院すれば状態変わらずで退院できる保証もないし、なにより寝たきりの92歳の心身の負担になるのは目に見えている。
しかも再びのコロナ大流行で面会もできないとなると高齢者にはダメージ大。

なので、「胃瘻」はしない方向で進めていきたいと思っています。
一日でも長く命を延ばしてもらうのか本人の負担を少なくするのか・・・とても簡単に出せる答えではありませんが・・・

今日は水分摂取の為点滴をお願いしたけれど、明日、明後日とどういう状態になるのかはっきりせず
口からものを摂取できない状況になればショートステイの利用は難しく
(ショートステイでは状態改善の為の往診はならず、訪問看護も受け入れていない為)
完全在宅での介護を余儀なくされます。
その場合、訪問看護とヘルパーの手をかりながらになるのでその手筈もとり
あとは母が持ち直すかどうか。こればかりは本人の生命力しだいです。
食事と下の管理意外で私に出来るのはマッサージと声かけくらい

こちらはその生命力のサポートをするのみ。
覚悟が必要ですね。


















































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私の世代で親の介護をしている人は
若いころ,こんな大変なことを自分が担うとは思ってもいなかったと思う。
それはあの頃
介護とは「特異な例」あつかいだったから。
テレビ番組などを見て、大変だなあと思っていた。私はその一人。

たとえば寝室からの呼び出しベルで夜中ひっきりなしに呼ばれるとか
理解できないことを言い続ける親に声を荒げるとか

なぜこんな他愛もないことに声を荒げるのかと当時は思ったものだった。
介護をする人は孤独なんだな、と。

現在、当事者の私は
たあいもないことを何度も繰り返す母に
声を荒げる。
穏やかに接することができればと心から思うけれど
それには途方もなく発展性のない時間が必用になる。

たあいもない事とは
たとえば「そこに時計あるでしょ。落ちそうだから気になるの」
実際は落ちそうでもなんでもなく
しかも何年も前から同じ位置に掛かっているもの。
それを、穏やかに普通に説明することだってできる
しかし相手はこちらの説明なぞは聞いていないのだ
自分の主張のみを続ける。
そして執着しだすと止まらなくなる。
その時計の位置を直したところで次々にたあいもない心配事が生み出されていくのだ。
とほうもなく続く生産性のないやりとり。

それはきつい。

なので現実社会に生きている身としては早急にその不毛なやり取りを終了したくなる。
強制終了だ。

理由立てて会話が成立する相手とはこんな非人道的手段はとりたくないけど
相手が納得、こちらも納得という運びが無理だからそうするしかない。
しかしこれには自己嫌悪がいつもつきまとう。
母とのやり取りはいつもイライラしていて何かしら怒っていてせわしなくて乱暴になる。

生産性のない生活と不毛な会話と、それをうまくコントロールできない自分と
何もかもがイライラの要因だ。
人間は、楽しいことがあったり達成感があったりドキドキしたり
多少はそういうメリハリ要素の入った人生を送れないと日々がグレーになる。
淡々と繰り返される日々というのはゆっくり落ちていくのと同じことだ。

しかし私は知っている。
これは自分との慣れあいの甘えだと。
淡々と繰り返す日々が実はどれほどありがたい物なのかも知っている。
問題なのはいつも、提供する側ではなく受け取る側の自分なのだ。
自分を守り相手も守るため強制終了しなければならないのであれば
もっと自分を強く持つべき。

状況に飲み込まれてしまっては自分から生きていることにはならない。
わかってはいるんだけど、たまに渦にまかれそうになる。
問題なのは状況ではなく私だからね。

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ぼやぼやバタバタしているうちにもう三月!
大抵の方と同様、ルーティーンに日々を過ごしているとあっという間だ。
自分の時間も構築しなくてはただただ歳とっていくのみ(!!)なので
母のお世話だけに振り回されないようにしないと。

介護対象となる母が現在どのような状態なのか
これまでどのような流れだったのかを記載するとわかりやすいか・・

現在母は要介護4。
介護生活が始まった15年ほど前は認知症と診断されたけれどどうやら違った模様。
当時の体調はつい3年前に診断された進行性核上性麻痺という脳の難病の影響からだったのだろうと
思う。
「思う」というのは、現時点の担当医に昔からの流れをすべて把握しその度毎の原因を解明してもらうのは無理だから。

・もともと狭心症持ち
・13年ほど前に脳梗塞を発症し入院
・11年ほど前に室内で転倒し頭部挫傷
・6年前に室内で転倒し左肩複雑骨折
・四年前に心臓の弁置換手術と冠動脈バイパス手術で二か月入院
・3年前に急性胆管炎で1か月入院、その後進行性核上性麻痺診断

の後、昨年年初めのインフルエンザ発症の影響で歩行困難になりほぼ寝たきりになるという流れ。
ん~~、こうやって書き出してみると整理しやすいわ。

上記の五つの事項。その度毎に、本当にその度毎に
「発見が早くて!」とか「奇跡的に!」などを担当医にたびたび言われると(医者はすべて違う)
いちいち母の生命力の強さを思う。

が、このような流れと加齢により現在は歩行はもちろん着替えもできず
食事は自力で可能なので助かるけれど震顫もひどく左手はほぼ機能せずエプロンつけても汚さず食事は難しい。排泄介助は1時間半に一回。

ショートステイ(宿泊込みのサービス)とヘルパーさんを利用させていただいているけど
一日中ヘルパーが居てくれるわけではないので日中の仕事はやはりステイしていてくれていないと難しい。
仕事柄週末の方が予定は立て込みやすい事もありショートステイは主に週末に利用させてもらっている。

と、まあこのように人の手を借りてルーティーンを回しているわけだ。
当然今の母より状態の悪い方もたくさんいらっしゃるし、介護が重複している方も世間には大勢いる。
頭が下がる事情を抱えて頑張っている方はとても多い。

私の場合、流れからみると今の母の状態はもちろん初めのころに比べると格段に良くないし
時間も取られ、手がかかるという意味では数年前と比較しても自由はきかない。
では私自身の追い詰められ方はどうかというと
これは介護に入ったころのほうが強かった。

原因として、
・介護制度がまだ安定していなかった
・これからどうなっていくかの不安が今以上に大きかった(私自身腹がくくれていなった)
・どのように制度や人に助けてもらえばいいのか全く分からなかった
・今より若いのでおばさんの図々しさに欠けていた
というのがあるのだろう。
そういう不安な中で自分の立ち位置も不安定だった。

どんな介護も大変なんだ。家族構成もちがうし収入だって様々。いろんな事情がある。
「状態の悪い方のお世話の方が大変で介護度が低い方は比較的楽」なんていうことはない。

人に大変さを語ることができない私だけど、友人知人ではなく介護従事者にはおおいに訴えるべきだということも学んだ。
あちらも対象者をたくさん抱えているのでいちいちこちらの思いを忖度してはくれない。
おおいに訴えるべき、相談すべきだ。その気になれば打つ手はある。
そうすると心に隙間がちょっと出来るから「思い込み」から逃れることも出来る。
そして無理のない自己コントロールも可能になる
何が大変て、介護している自分と付き合うこと。

声を荒げたりイライラしたり冷たくなってしまう自分も居るけれど
少なくとも絶望的になることは無くなった。

こうやって行ったり来たりしながら少しずつ移行していくんだろう。

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介護施設(デイサービスやショートステイ)の利用の仕方はいろいろとあって
大前提として週に何回以上、月に何日間までとかあるけれど
そこは人間関係なので、長く利用していると何かと融通してくれたりもする。
ウチの場合は私の仕事が比較的立て込む週末メインで利用させていただいていて
その間は心置きなく仕事もできるしストレスは少ないんだけど
毎回「今回はどんな様子で帰宅するか」が私にとってちょっとした問題になっている。

送迎車から車いすで降ろされた状態を見て「身体機能、脳の覚醒度合」はある程度把握できる
声をかけてもいびきをかき続け眠り続けることもあれば、瞳がやけにギラつきとりとめのないことを常に話し続けることも。
抱えればある程度歩行出来るか、全く足が動かないことも。
帰宅するたびに様子は違う。
そしてその様子は次回のショートステイまで続くのでやっかいだ。

便の様子もそう。
全く便意が見られないと思えば軟便続きだったり、三種類の消化剤をその都度バランスみながら調節しているけどなかなかうまくいかない。
昨夜はなんと二回も下痢騒ぎ。
今回は思考もバラバラなので「〇〇さ~ん!〇〇さ~ん!(知人)」と私を呼ぶ・・・
そして翌日も同様の覚醒状態に延々とつき合わされる。

そういうすべての安定しない状況にこちらが合わせないとならないのはナカナカきつい。
日々の小さなことが潰されていくのは。

自分が埋もれていく感じで、それだけの、細切れの毎日という感覚にとらわれてしまう。
まとまった時間がほしいな~と思う
小さな隙間時間ではなくて、自分を見つめられるまとまった時間が。

何処かへ行くのが好きで、空港や新幹線のホームや、あのざわついた感じから車内に入ると空調が効いていて静かで
その飛行機や新幹線に運ばれていく感じも大好きで
旅先の感覚のみならず、それをしみじみ感じたいから一人旅もとても好きなんだけど
もう何年もそんな時間が取れていない。
そんな時間がとりたいなあ、と思う。

生活圏内ではないところで何かを感じたい。

この「感じたい」という感覚は渇望といってもいいくらいだ。
それは自分を「感じる」ということなんだ。

行きたいところは近距離から遠距離までたくさんあるのにな
一泊でいいんだけどなあ
「感じ」られればきっとまた新しく頑張れるなあ
よし。来年の抱負だな。

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