
私の世代で親の介護をしている人は
若いころ,こんな大変なことを自分が担うとは思ってもいなかったと思う。
それはあの頃
介護とは「特異な例」あつかいだったから。
テレビ番組などを見て、大変だなあと思っていた。私はその一人。
たとえば寝室からの呼び出しベルで夜中ひっきりなしに呼ばれるとか
理解できないことを言い続ける親に声を荒げるとか
なぜこんな他愛もないことに声を荒げるのかと当時は思ったものだった。
介護をする人は孤独なんだな、と。
現在、当事者の私は
たあいもないことを何度も繰り返す母に
声を荒げる。
穏やかに接することができればと心から思うけれど
それには途方もなく発展性のない時間が必用になる。
たあいもない事とは
たとえば「そこに時計あるでしょ。落ちそうだから気になるの」
実際は落ちそうでもなんでもなく
しかも何年も前から同じ位置に掛かっているもの。
それを、穏やかに普通に説明することだってできる
しかし相手はこちらの説明なぞは聞いていないのだ
自分の主張のみを続ける。
そして執着しだすと止まらなくなる。
その時計の位置を直したところで次々にたあいもない心配事が生み出されていくのだ。
とほうもなく続く生産性のないやりとり。
それはきつい。
なので現実社会に生きている身としては早急にその不毛なやり取りを終了したくなる。
強制終了だ。
理由立てて会話が成立する相手とはこんな非人道的手段はとりたくないけど
相手が納得、こちらも納得という運びが無理だからそうするしかない。
しかしこれには自己嫌悪がいつもつきまとう。
母とのやり取りはいつもイライラしていて何かしら怒っていてせわしなくて乱暴になる。
生産性のない生活と不毛な会話と、それをうまくコントロールできない自分と
何もかもがイライラの要因だ。
人間は、楽しいことがあったり達成感があったりドキドキしたり
多少はそういうメリハリ要素の入った人生を送れないと日々がグレーになる。
淡々と繰り返される日々というのはゆっくり落ちていくのと同じことだ。
しかし私は知っている。
これは自分との慣れあいの甘えだと。
淡々と繰り返す日々が実はどれほどありがたい物なのかも知っている。
問題なのはいつも、提供する側ではなく受け取る側の自分なのだ。
自分を守り相手も守るため強制終了しなければならないのであれば
もっと自分を強く持つべき。
状況に飲み込まれてしまっては自分から生きていることにはならない。
わかってはいるんだけど、たまに渦にまかれそうになる。
問題なのは状況ではなく私だからね。