IMG_0524

前回は10月から11月にかけての身辺の経緯をザクっと(あの長さでもザクっと)書き込み自分の思いなどは改めてと結びました。

良いニュースを探し出すのが難しいほど大変な動きばかりの世の中
理不尽な思いをされて懸命に日々をおくっている方が溢れる世の中に
親を亡くした人間個人としての内面の動きなど人様の目に晒しても恥ずかしいだけで無意味だと思いましたが
やはり「介護ブログ」という名目で開設した以上はその後の段階までを発信しなければただの逃げ腰だと思い直し
恥ずかしくはありますが自らを晒すことに挑戦します。

ただし恥ずかしいので「日記」のような、人に伝える文体ではない形式にしますのでご了承ください。
以下↓

長いこと介護を続けた母を自宅で看取るという最期から一か月が丁度すぎた頃から
徐々に自分の心持ちが顔を見せ始めた。
「お母さま亡くしてお寂しいですよね」とかそういう優しいお言葉に沿えない感覚
いや、寂しくないわけでも悲しくないわけでもないが泣き崩れて生活に手が付かないとかそういうものではない感じ
乱暴に言えば「ここまでやってきた私の20年は何だったのだ」というのに近い。

自分との折り合いをつけながら上手くバランスを取ってやってきたつもりの介護生活だっだが
いざ母が亡くなり日にちが経つほど生活の空間、時間、思考、何もかもが自分の入る隙間がないほど「母の介護」であり介護中心で生きてきたことに気づかされ愕然とした。

介護は時間や体力のみならず思考も奪う。それが何より厄介。
対外的に装うことは容易だが、実は思考回路は気づかない内に介護回路にプログラミングされ
自分自身を縛っていたらしい。

ほぼ四半世紀前、父を亡くし訳あって実家を手放さなくてはならなくなり
一人で生活など出来ない母を半ば引き取る形で不本意に始まった母との生活
それまで一人暮らしだった私は「これで自分の人生も終わり」と嘆いたものだが
今思うのは確かに人生の中の貴重な長い時間がスッポリと使われてしまったこと。
今は用済みで「はいお終い」と投げ出された感覚

私の場合は双方がある程度納得のできる最期を迎えられるための介護だったのだが
貴重な時間をたくさん使い懸命に取り組んできたものが母の死によって「意味のない物」に感じられてしまったのだ。
なんだそれ、バカバカしい。わかってやって来たことなのにそんなものにむなしさを感じてさ。と自分を嘲笑う。

同じようなことを人から聞けばきっと「そんな事はない」と言うのだろう
自分でも子供じみたくだらない感覚だということは理屈では理解出来ている。が、感じてしまっているのでこればかりはどうしようもない
長い間1人で張り切りすぎてきたのが一番の要因なのだろう。

勿論介護関係各所や医療関係各所には大変お世話になりとてもありがたい
おかげでやってこられたと心の底から感謝しているが、その各所の手続きや事業所の変更、トラブルなど頭を悩ませた部分も含め、ベースはやはり私が全て采配していた。
大手術や怪我の対応、排便や発熱、食事、水分摂取、体位変換等々を24時間。度重なる決断。
自分自身のやるべきことと実は並行できていなかったにもかかわらずプライベートも上手くこなしていると思っていたし
月日が長かった分だけ「やれて当然」と思い込み失敗を恐れていた。

シングル介護なので他の時間の流れが生活になかった為、自宅の空間が全て介護になっていたのも良くない。
ザ・介護の家。
母が亡くなったことで「暮らすための家」になり
この年齢で改めて戻ってきた時間と空間をどのように操っていけばいいのか途方に暮れている様子の浦島太郎状態

長い年月に不義理をしていた友人たちと以前のように交流する事も出来ないだろうという虚しさと
当たり前の社会参加ができていなかった自分を顧みて情けなく、なによりそれ等が悲しいようだ。

今から「失われた20年」を取り戻すのは不可能だが外に踏み出す小さなリハビリを重ねながら残された人生を新たに歩まねばならない
とはいえ既に一か月以上も過ぎ、飽きるほど考え感じ尽くしたので全面的に社会復帰だ。
残された自分自身の人生内に追いつかなくなる前に駆け足で進んでいかないと。

年が改まったら自分の機嫌を自分でとりながら走り抜けていきたいと考えている。